永暦元年 - 1160年03月06日
命拾いした三兄弟
清盛が常盤ママと俺たちを助けたのは、別の説もある。清盛のスケベな下心説だ。
さっきも言ったけど、まあ息子の俺が言うのも何だけど、常盤ママは日本一の美人なんだよね。洛中(つまり京都の中)から集めた容姿端麗な女性千人から一人っていう厳しいオーディションを経て選ばれた美女が常盤ママなんだよ。
清盛は、この女が言うことを聞くなら、三人の子供も助けていい、とまで言ったともいう。もちろん、俺たち三人はいずれ子孫の敵になるかもしれないけど、そんなことはどうでもいい、っていうんだから、色香に迷うってのは怖いよねえ。
まあそういうわけで、頼方・景清に命じて、七条朱雀(※今でいうと七条千本)に常盤ママを囲わせたんだ。毎日の番も頼方が手はずを整えて警備してた。
清盛はいつも常盤のところに手紙を送ったけれど、ママは手に取って見ることさえもしなかった。でも、俺たち子供を助けるために、ついには清盛の野郎の言うことを聞くことになってしまった。
まあそういうわけで俺たちは助かったわけだけど、いくら清盛がOKっていっててもみんな一緒にいたらやっぱり身の危険があるんで、三人の子供は別々のところで育てられて成人することになった。
今若兄さんは八歳の春のころから醍醐寺(あるいは観音寺)に入って学問し、十八歳のときに受戒してお坊さんになって、禅師公全成とか禅師の君と呼ばれるようになった。その後、駿河国(※静岡県)の富士の裾野にいて、悪禅師殿って呼ばれてた。あ、ちなみに悪ってのは「悪い」って意味じゃなくて「強い」って意味なんで間違わないでね。
八条宮こと円恵法親王のところに預けられた乙若兄さんは、円成っていう坊官(在家のお坊さん)になったんだけど、とにかく悪いことを考えてる恐ろしい人で、賀茂祭・春日祭・稲荷祭・祇園祭というお祭りごとに平家を狙ってた。で、後に紀伊国(※和歌山県)にいた新宮の十郎義盛が反乱を起こしたときに参加して、東海道の墨俣川(※岐阜県)で討たれてしまった。これは義和元年(1181年)のこと。
さて、最後は俺、牛若。四歳までママのところにいたんだけど、まあちょっと俺って同じ年代の子たちよりちょっと性格とか振る舞いが大人びてたもんで、清盛がずいぶん気にしたんだよね。
「敵の子を同じところで育てていたら、しまいにどうなるかわからん」
そのころ、京都の東、山科っていうところに源氏ゆかりの人が住んでいた。世捨て人として寂れた住まいにいた人なんだけど、俺はそこで七歳まで育てられることになったんだ。
常盤ママは大弐清盛とのあいだに娘をひとりもうけた。
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