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移転先はこちら→「「ブログの終わり」? それは「キャズム」を越え、一般化・大衆化によって薄まった時代の到来」
最近、「ブログの終わり」という話がブログ界隈で盛り上がっている。4月末には「ブログブームの終わり」というタイトルの記事が象徴する「ブログの予想以上の内容の薄さ」が取りざたされた。そして、5月末、「ブログに魅力を感じなくなった」という「ブログの終焉」という話が「ブログの匿名・実名議論」と絡んで持ち出され、それは一方で「ネットって一時期飽きたりすることがあるんだよね」という話にもつながっている。
で、それで思い出したのは、1年半前――ちょうどココログが登場する前後だ――にブログ論壇界隈で話題になっていた「ブログとキャズム論」だった。あのころ、ブログは「一部の物好きのブームから、もっと広い層に受け入れられる“壁”(キャズム)を超えられるだろうか」ということが議題になるような段階だった。
それが、1年半を経て、ブログは一般化・大衆化した。ブログの濃度が保たれず、「ブーム」という段階を超えた。それが今の「ブログの終わり」論の背景にあるのではないかと思う。つまり、ブログはニッポンのインターネットに「根づいた」のだ。
時系列順の関連リンクを最後にまとめてあるので、適宜参照していただきたい。
一部の専門家のみのツールに終わるのか、それとも「ブログはキャズム(ハイテクの落とし穴)を越えてブレイクするのか?」という議論がなされたのは2003年末のことだった。それまでは、日本のブログ界では、ブロガーはプログラマー、IT関係者、学生、テクニカル系ライターなどが中心となり、自分でサーバーに設置するタイプのMovableTypeかBlosxomが主流であった。そして、その設置方法や改造方法がブログ界の最大の話題という時期があった。
しかし、その後、ココログの参入でいわゆる「IT系ではない」一般の人、あるいは議論を好むタイプのブロガーが増えた、というのが私の日本ブログ史についての見方である。
それから数カ月後、私はブログが「キャズム」を越えて一般化するだろうと考えていた。自著『ウェブログ超入門!』(2004/06/10)でこう書いた。
今、「ホームページ」や「インターネットの掲示板」や「電子メール」といった言葉は、新聞などでもほとんど説明なしに使われるようになりつつあります。やがて、「ウェブログ」「ブログ」という言葉は、これらと同じように、ごく普通の基礎的な言葉として認識されるようになっていくでしょう。
また、はてなの近藤社長は、『はてなの本』(2004/09/09)のインタビューでこのように答えている。
論争があって「ブログ」と言う言葉がネガティブワードのようにとらえられていたときは、その言葉がどうなるか見えませんでした。でも、あるとき、この言葉は今後「メール」みたいな一般名詞になるだろうと思ったんです。
で、一般名詞なら、説明するときにその言葉を使えばいい。たとえばメールのサービスやってるのに、メールという言葉を使わずに電子郵便とか書いてたら、意味わからないですよね。だから、「ブログ」という言葉が世間一般で通用する名詞となるなら、それを使って説明すべきだろうと思ったんです。
こういうものを何と呼ぶかという名前がやっと定着してきたんで、この名前を使ったということなんです。
そして、それから1年。これらのコメントはまさに現実化しつつあると思われる。
私の周囲には、ネット素人が非常に多い。メール使って、一応ホームページは見れるけど、といったレベルの人たちだ。CSSだのW3CだのSEOだのトラックバックだのといった言葉は基本的に通じないどころか、掲示板とチャットとホームページの区別さえもあやしい。そんな人たちが、たとえば『はじめよう! みんなのブログ』(Vol.2・Vol.3)を片手に「ブログ始めました!」とメールを送ってくるという現象が最近よく見られるようになった。
というか、ブログの定義なんか彼らは知らない。8年くらい前の「マイホームページ」ブーム後、「全世界に情報発信できるっていう“ホームページ”始めました!」と言っていた人たちとまったく同じような感覚で「簡単にネットデビューできるっていう“ブログ”始めました」と言ってるのである。つまり、「ホームページ」と「ブログ」が同義化しつつある。
こういう現象は、かつて「ブログの定義は何ぞや」とか言って、「RSSとトラックバックだ!」「いや、ブログってのは表現形式でしょ」「新しい!」「いや、古い」「みんなひっくるめてウェブロでいいじゃん」といった議論を戦わせていた人たち(おれも)から見れば、もうぶっ飛びすぎた「いい加減なとらえ方」、あまりに薄められた(間違った)流布のされ方にほかならない。
だが、これもかつて来た道だ。「ホームページはブラウザで最初に表示されるページであってサイト全体じゃない」「いや、トップページだけのことも指す」「HPってヒューレット・パッカードのこと?わらい」みたいな厳密論が「ホームページで儲かる!」なんていう一般的表現に吹っ飛ばされたのは、ごく数年前のことだった。
まあそれはともかくとして、ブログはもう一般化してしまった。知名度ではまだまだ「ホームページ」に劣るだろうが、それは8年前にも「インターネットって何?」と言ってた人が大半だったことを思えば、大した違いではない。
純粋さを保つには限定された小さなコミュニティを守る必要があり、それが大衆化・一般化した時点で本来の意義は失われ、薄められていく。そして「古き良き時代」を回顧する口うるさい古参ども(おれも)が「あんなのは○○じゃない、原点に帰れ」運動をやったりするのである(ここでいう古参とは、実際の古さそのものを意味しない)。
キリスト教だって、カトリック教会となり、ローマ帝国の国教となる過程で、もともとのイエスの過激な教えは薄められ、別のものへと変質していった。そこで「聖書に帰れ」と言ったルターが登場したりするわけだ。イスラム教は、マホメット自体が「一神教の原点に帰れ」と主張して始まった運動だったが、それも大衆化して薄められ、変質した――というわけでいわゆる「イスラム原理主義」が登場する。仏教も、大乗仏教という大衆化の波が押し寄せたが、それは旧来の教えを守ろうとする側から「大乗非仏論」として批判された。
拡散して薄められて変質する。それをまた元に戻そうとする揺り返しがやってくる。ブログ界の「終わり」論争は、その大衆化・一般化によって流布された一方で薄められていく、まさにその過程に日本ブログ界があることを示しているのではないだろうか。
{ marble Beat* }というブログは、今回の議論の中で「ブログ幼年期の終わり」という記事を載せた。このネーミングは、私には一番しっくりするものだった。キャズムという「一部の人たちのおもちゃ」の段階を超え、ブログは(ちょっと目新しいが)普通名詞として定着しつつある。かつての濃かったブログを知っていて、その濃さを深めつつさらに広がることを期待していた古参ブロガーにとって、ブログが流布するにつれて一般化・大衆化し、必然的に薄まっていったことが耐えられなかった――それが今起こっている議論の背景にあるように思える。
特に、「アルカンタラの熱い夏」でのブログの「細分化」と「純化」と「復古」という記事は非常に注目に値する論考だと思う。これは今後のブログ界の流れを見る上でキーとなる重要な視点ではないだろうか。
ガ島通信の藤代さんは“ブログの「終わり」と「始まり」”という記事を日経bpでまとめ的に発表している。ここには、ブログユーザー数の増大によってそれまでのブログ・コミュニティが崩壊するという図式について、特にコミュニケーション、マナー、ルール的な観点から書かれている。しかし、私は「ブログの拡散と一般化」の影響を、その範囲に限定せずに見てみたいと思って、今回のこのメタ・メタブログ記事を書いた。*1
■は一連の議論の中心、キーとなる記事。★は特に松永が重視する記事。
→「日本のブログはどうして議論が活発にならないか談義」と「一般化の過程」の2つの議論へと展開。ちなみに、「日本のブログはどうして議論が活発にならないか」という命題については、「日本人は議論が下手だから」の一言で済ませたい。豚に真珠、猫に小判。いくらすぐれたコミュニケーションツールがそこにあっても無理なものは無理。というか、議論ベタはブログと別次元で語るべきだと思う。
←「実名・匿名談義」と絡んで始まり、→「一時ネットに飽きる現象」へと展開。